今から150年以上前の幕末明治の時代に、大垣城内で作られていた焼き物があります。その焼き物には、大垣城の別称である『巨鹿城(きょろくじょう)製』の文字があり、城内等で使用されていたと考えられています。しかし、災害や空襲で多くの作品は失われ、いつからか幻の焼き物と呼ばれるようになっていました。
巨鹿城製の銘の入った煎茶碗は、紀州藩江戸上屋敷遺跡からも出土しており、贈答品としても使われていたのではないかと考えられています。
巨鹿城焼についての一番古い記述は、大垣藩主9代戸田氏正公が江戸から栄松院(氏正公の娘)へ宛てた手紙の中にありました。この中では「松ノ丸やき」と書かれており、松の丸で焼かれていた為、別名「松の丸焼」と呼ばれていたことがわかっています。また、人々からは、松の丸御殿で焼かれた「御殿焼」として、その存在が知られていました。
手紙には「松ノ丸焼をくださってお礼申し上げます、日用品として使います」といった内容が書かれていたことがわかっています。
昭和39年10月に、御殿町での下水道工事中に、窯跡と伝えられていた箇所から、煎茶碗・皿・御神酒ツボ・鉢4点や焼成用具の厘鉢(さや)などの窯道具200点以上が発見されています。この出土品の絵付けは手描きで、高台内には『巨鹿城製』の文字がありました。
また、平成5年の同町内個人宅建て替え工事では多数の窯道具、平成14年の同町内マンション新築工事では摺絵染付(すりえそめつけ)の碗や蝶が手描きされた馬上杯の陶片などが発見されました。
焼成の時期は、天保年間(1830-1843)から明治3年(1870)頃までと考えられ、皿や煎茶碗、蓋付碗が主です。絵付けの技法は手描きと摺絵の染付で、土の質は白く緻密な瀬戸の半磁土と思われます。大垣の土は温故焼に代表される赤土なので、土あるいは素焼きの生地を瀬戸から取り寄せていたと考えられます。
発掘調査図と江戸時代の大垣城郭図を見比べてみると、現在の大垣郵便局辺りが松ノ丸と呼ばれた場所であることがわかります。窯は建物から離れた水路近くに構えたのではないかと考えます。
江戸時代に始まった摺絵染付は、いったん途絶えてから明治初期に再興、明治15年以降には伊勢型紙を応用した緻密な柄ができるようになったと言われています。明治20年以降には再興された銅版染付が全国的に普及し、摺絵染付はしだいに衰退していきます。
摺絵染付の特徴は、摺絵の模様を見ると線が破線状になっており、全面を覆う模様には必ず継目の重なりがあります。また、摺刷毛を使って図柄を摺りこむ為、染付部分は濃淡の跡ができます。
染付千鳥青海波文脚部の裏側には『大日本美濃国巨鹿城焼』の銘があり、明治時代のものとわかります。幕末に日本に輸入され、明治時代に全盛期を迎える灯油ランプの脚部で、この上にオイルを入れる壺があったのではないかと推測されます。
夢現窯では、オリジナルの巨鹿城焼の制作を承っています。
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協力 大垣市郷土館・大垣教育委員会・大垣図書館・小野静観堂・髙木繁雄(敬称略・五十音順)
参考文献 大垣市教育委員会「大垣城趾・城下町試掘確認調査」
「大垣市埋蔵文化財調査概要 平成14年度」2004
西美濃わが街
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